ヴィオラと瞑想

宝寿寺というお寺の本道で開かれたヴィオラのコンサートに行きました。

地元の方たちが中心になって、川本嘉子さんと山下典道さんという

すばらしい奏者を招いて開いた手作りのコンサートで、この距離で、

この気楽さで聴いちゃっていいんだろうか?と思ったくらいの内容でした。

 

楽器ってすごいなぁ。

自分の中の何かがぐいーんと動いて、しばらーく感動に浸ってしまった。

ああ、ふだん自分がしていることなんて実に小さいなぁ!と

高い場所に連れて行ってもらったような。

 

川本さんも山下さんも、まず人格がすばらしそう。

楽器を演奏する、でも

種を畑に蒔く、でも

モノを人に渡す、でも

料理をつくる、でも

なんでも結局はそこに加わったエネルギーや波動がカタチを変えて私たちの目の前に差し出されている気がする。

だから何をするのでも最後はその人の人格で決まってしまう。

人格というのは根っこの性質とかそこに向かっている気持ちとか。

 

そして、怒りに満ちた時に撒いた種は発芽しないのも、

どんなにいい食材を揃えて調理しても、

その時の感情によっては健康を害するような料理になってしまうのも、

その延長で、きっとあたりまえのことなんだろう。

 

イギリスの作曲家シリス・スコットは著書で物質の波動を音楽として捉える能力のある人たちの

ことを紹介している。ネルサ・チャップリンという人は自然界のあらゆるものが音として

聞き取ることができたそうだし、エドガー・ケイシーも同じようなことを言っている。

ま、どんなものにも固有の波動があるわけだから、それを音で捉えられることはなんか想像できる。

 

ホメオパシーの希釈のレヴェルは音階と連動するらしいし、

バッチフラワーも人の感情レベルの波動に処方する療法だ。

 

 

ぜんぜん並べて話せるほどのことでなく恐縮だけど、

私はスコーンを焼くときだけは流す音楽もだいたい決めていて、

できるだけ朝のきれいな感じのする時間の中で無心でするようにしている。

素材のことを想っていたり、おいしく焼けますようにという祈っていたり、

でも中心はぽっかり空いているような時間。

ひらめきが降りてくるとしたら、こういう時かもといえるような。

この時間がきっちり成立した時は精神状態がとてもいいので、

スコーンを焼くというささいなことも実は自分にとっては大切なのです。

たぶん誰でもそういう特別なところに向く時間があると思う。

 

友人のところの田植えの手伝いから帰って来た夫くんもいう。

「むかしの日本は8割の人が農民で、みんなこうして手で稲を植えていて

自然の風景の中で実はずっと瞑想状態だったんじゃないかなぁ。

そういう時間がいつも暮らしの中にあって、しかも今みたいに情報過多ではないし、

だから外国人が来て驚かれるような高い精神性をふつうに持っていたんじゃないかなぁ」

 

 

瞑想。メディテーションといえば、アメリカに居た時は毎週インド発祥のサハジマルグの瞑想に

参加していた。今は日本でもNPOがあるようです。年に一度だったか、大集会みたいなのがあって

1万人が毎日同じホールのようなところで瞑想する。オハイオ州であった時には友人母子と共に

娘連れで参加した。その時に心のクリーニング(あるいはデトックス)の大切さを少し知った。

ふつう団体でなにかする、ということはほとんどムリなくせに、そんなところに平気で参加

できていたのは個々の自由がまったくOKだったのと、友人がヨガとメディテーションの

インストラクターをしていて、彼女を信頼していたから。

 

ちなみにそんな友人夫婦のしているホリスティック・センターはこちらです。

遠いけど、もしチャンスがあったらゼヒ。

大切な友人WeiとGregor、そして娘の rose によろしくお伝えいただければ幸いです。

今、思うと彼らとの出会いも運命的な導きだったんだなぁ、とわかる。

長く生きるといろいろ謎が解けてくる。

 

faceboookでは辻信一さんが夏至(6月21日)にはメディテーションを、とそれは英語だったけど

呼びかけていて、キャンドルナイトからメディテーションと日本もいよいよ機が熟してきているんだな、

とおもった。

 

美しい音色の音楽と瞑想は心の浄化をうながすというところが似ている。

川本さんが、山下さんが、どれくらいヴィオラを練習して、どれくらい音楽について考えて、

その副産物として人格が磨かれていって、ああいうメロディを出せるようになったのかを想うと、

全身全霊で何かをし続けるということは人生のすべてかも、と思ったりしました。

 

バイオリンとヴィオラの見た目の違いがよくわからない私ですが、笑。