20年前の今日、前日に仕入れの旅から戻って来たばかりの時差ボケで朝早く目が覚めて、
たまたまTVをつけたら「神戸で地震!」というニュースが飛び込んできた。
その映像はリアルタイムで起こっている現実という感じが全然しなかった。
今さらながら被害に遭われた方々に心よりお見舞い申し上げます。
当時は地震といったら当然「自然に」起こるものだと思っていた。
しかし、どうも人工地震なんていうのもあるらしい。
そして今また大きな地震の前だとあちこちで言われている。
だけど、朝のテレビでそれが現実と認識できるまでに時間がかかったように、
「もうすぐ地震がくる」という予告もそれを今の生活の中に落とし込むのにも時間がかかるように思う。
避難用リュックに必要なものを揃えるというようなことよりなんていうかもっと精神的な面で。
そんな時、Yahho!の一面に阪神大震災当時の生々しい写真を出すのはどうなのだ?
何万人という人の目のなかに一日に何度も残像が残りそうな映像を送り込んで防災意識を高めてる?
・・・なんか違うような気もする。
突然、起こったことに対する条件反射みたいな行動ってほんとうにその時になってみないと案外わからない。
東北の震災のとき、原発が爆発したという情報が届いて、子どももいるからとりあえず距離をとろうと思って
動き始めたときも、通りかかったパチンコ屋も焼き肉屋さんも駐車場はいっぱいの日常のままで、
なんだかとてもシュールだった。ま、これはちょっと違う例かもしれないけれど。
でも、ふだんは見ない自分の本質を再確認しているような気がした。
311のことでは自分たちは「被害者」でなく「経験者」なんだと考えている。
経験は新しい感受性のフィルターが増える人生の財産だ。
だけど生きている状況によっては同じ日を経験しても、かなり厳しい現実になる人もいるだろうし、
将来的には誰もがその可能性を多少なりに抱えていると思う。
あれ、何が言いたいんだっけ。
人生なにが起こるかわからない。
タフでなくっちゃ!
そして今の常識がそんな時にどれほど通用するものなのか?
311後はいつもそんなことを考えるようになった。
世間体とか、人並みにとか、学歴社会とか、いい会社とか、お金の価値とか、土地の価値。
宗教、貯金、保険、今住んでいる家はほんとうに人を守ってくれるのか?
インフラがきかなくなって、お金の価値もなくなって、頼りにしていた会社もつぶれて、家も倒壊して、
今までの幻想が一度ぜんぶクリアになったら?
そこに少しでもワクワクする気持ちを見つけられるくらいに強く生きていたいと思う私なのでした。