矛盾のないシゴト

今しあわせだな、と思うのは好きなシゴトが矛盾なく成立していることだ。

若い頃からのアルバイト的なものも含めて、振り返ってみるとホントにいろいろなバイトやシゴトをしてきたけれど、

慣れてくるとどうしても気になることが出てきて、これでいいのかな?と思い始めるとずーっと気になって

改善策を講じてみたりしても、自分ひとりじゃ解決できなかったり、その仕組みが成立している中では

「長いものには巻かれろ」という見えない空気とひとり相撲しているみたいで、そんな環境は心を曇らせ、

慢性的なストレスでもあった。

 

ストレスは良くない。

ストレスは体温を下げる大きな原因で、それで免疫力も数倍、下がっていってしまう。

身体の弱い、というと見ためにも語弊があるので、敏感と言い換えた方がいいのか(?)、

とにかくこの身体で生きていかなければならない私には、そういうストレスはもっとも避けたいことの一つである。

どんなにお金を稼げるシゴトだろうが、どんなに人から羨ましがられるシゴトだろうが矛盾を感じてしまうシゴトは、

二度としたくない(できない)。贅沢でわがままで恵まれているといわれても、ここだけは譲れない。

 

私が感じていた「矛盾」とは

「これを売って○○を増やしているんじゃないか」という気持ちの○○のところに

ゴミとか、病気とか、搾取とかの言葉が入るようなことや、

「このシゴトに携わってほんとうに○○にとっていいことなのか」という気持ちのところに

生命とか、人とか、健康とか、環境とか、社会とかが入るようなこととか、そういうこと。

 

そしてそういうことがあっても世の中では不思議と「とりあえず」そのシゴトは成立していて、

そこだけ経済的にまわっていれば、それはまるで正しいことのように存在している、ということも気になった。

 

だからといって、ボランティア的なもの、イデオロギー的な行動も正直、苦手な自分もいる。

たしかに助けられる人が助ける、というのはいいに決まっている。

ただ、それでまた矛盾を作っていないか考えることも必要な気がする。

いいシゴトを続けるためには適正な報酬があって当然だし、その行為がまた新しい歪みを生んでいないか、

矛盾を作っていないか時々、吟味するのも大事なこと。

 

自然環境というか、宇宙全体というか、大きな循環の中でバランスをとりながら命が存在しているとしたら

人間の行動もどこか、そういうものと調和していた方が着地がうまくいくように思う。

個人のゆがみは宇宙のゆがみにつながる。

 

これは戦争反対とか原発反対とかにも通じるし、デリケートな問題で誤解されたくないのであまり言いたくないが、

なにかを声高に主張したり、抵抗するには相当なエネルギーが必要で、それは無限にあるわけじゃない。

エネルギー過多な若いときなどはなんでもすればいいと思うが、今世では有限な命(エネルギー)のもっとも

有効な使い方を考えると(こういうところが合理的っていわれるんですけど)、もっと人が全体的に今日の生活を

そっちにもっていくようなことに使った方がいいのでは?と思うことが多い。そうすれば一部の人が自分の生活を

犠牲にしてまで、世の中の歪みや矛盾に反対することを続けなければならないという現象も減るのではないだろうか。

私たちはつい枝葉末梢的な「見える」出来事に右往左往してしまうが、その根っこの原因をなくさない限り

問題はまたカタチを変えて現れてくる。


日々のなかで一番時間を費やすシゴトの選び方、家族と過ごす時間、暮らしの中の選択一つ一つを

少しでも矛盾のないものにしていくことの方がもしかして平和に近づく波動を起こせるんじゃないか、と思うのだ。

ここに至るまでさんざん寄り道した私は最近、そう思う。

 

ダブルスタンダードで生きていると、なんというか魂がピカピカしないような気分に襲われる。

余計な因果をつくるな!そのツケがどこにまわるか考えよう!とどこからか声が聞こえる気がする。

「好きではない」という感情の中になにか本能的に関わりたくないというものがあるかも知れないし、

それを辿っていくと見えないところで人を傷つけていたり、不幸の元を作っていたり、環境破壊や

社会悪に手を貸しているのかも知れない。と考えるのはいい歳して青いですかね?笑

 

だけど「好き」とか「なんだか嫌い」という気持ちは案外、根があるものだと思う。

好きなものに囲まれると心が元気になるし。

 

おくなが屋ではしたいことの10%もまだできていないという現実もあるけど、それと同時に、

この規模で矛盾のない店づくりができなければ、この先する意味がない!という気持ちでやっている。

 

矛盾がない、ということはお店に関わるすべてのものがいい循環している、ということ。

どこかの誰かが虐げられているような商品や、環境を壊していくことで利益を生むような商品や、

買ってもすぐゴミになってしまったり、不健康になってしまう質のものとか、利益がよくないことに

使われていたりとか、そういうものは今が良くても結局はダメ、全体の首を絞めていく。

毒は極微量だから効くのであって。ありすぎたら死にます!笑

 

今、おくなが屋で仕入れをさせてもらっているところ(会社でも個人でも)はすべて、

こちらから見て、どこか尊敬の気持ちをもてるところばかりで、これはすごくありがたいこと。

「尊敬とは人間関係の塩分である」そうですよ!

そういうところばかりのモノを集めるとたとえジャンルがいろいろでも、なにか沸点が一致するかのような

不思議な調和が起こる(気がしている)。だからそういう「好き」と深くわかっているものしか置かない。

目下の悩みはそういうモノとの出合いが増えてきて、でもお店の面積は決まっているということです。

 


話は飛びますが、最近すごく気になるのはホームセンターや包装資材屋さんの店内音楽。

若い歌手の恋愛系の歌を大音量でBGMにしている状況にたびたび遭遇するけれど、

お客さんは私を含めてほとんど中年なので、なんかそれだけでも場違い感あふれてるし、

それにああいう店って、みんなそれぞれが頭の中であれこれ思考を巡らせて必要なものを選ぼうとしていると思うんですよね。

いつも静かに買い物させて欲しい〜、と思うし、いったいなんの効果を狙ってかけているのか疑問です。

 

それに、そこで働いている人は一日中、そのBGMが耳から入ってくる環境ですよ?

蛍光灯たくさんとか、電磁波たくさんとか、音量の大きいBGMとか。

シゴトする場所がそんなものであふれていたら耐えられるのか?と勝手に心配しています。


さて本題に戻ると、そんなわけでおくなが屋にかかわって下さっている一人一人に

ほんとうにありがたいなぁと思う今日この頃です。