10000時間の法則

もうずいぶん前に吉本隆明さんが話していたのかな「10000時間の法則」というのがあって、

人が何かのシゴトで一人前になるには、それを10000時間すればその道で食べていけるくらいになるとか。

 

その時は「長いなぁ!」と思ったけど、人はだまっていても歳をとるもので気がつくとそのくらいになっているものが

なにか出てくる。それが人によって30代だったり40代だったり、もっと先だったり。ま、いずれにしても。

 

自分の場合それだけ続けられたことってなんだろう?と最近、考えてみたら、この気が多くて飽きっぽい性格でも

いくつかあったので歳はとってみるものだー、とちょっと嬉しくなった!(単純・・・)

たとえばモノを見る(見つける)ことにかかわって10000時間。食にかかわって10000時間。

(経理は人任せだけど)お店の経営にかかわって10000時間。あと海外で生活した時間、旅した時間。

主婦としても1万時間、子どもに育てられたのも1万時間を超えているぞ。

それからたぶんクルマを運転した時間もそのくらいなような。

考えれば、なんかいろいろしてきたじゃん!と自分にご苦労さま、です(?)(シゴトと違うものもあるけど)


1万時間といったら毎日2〜3時間すれば10年、5〜6時間くらいすれば5年、10時間すれば2〜3年という期間。

そのくらい続けると何かその世界と自分の波動が親和性をもって細胞レベルで何かをつかめる感じ、というのかな。

一定の時間、寝る時間を削ってでも夢中になる濃ーい時間を過ごすと、確かに何か手応えが変わるものね。

 

ちなみにウチのダンナさんはパンの道では10000時間を超えてる。

大手企業のサラリーマンの経験も超えているねぇ(お疲れさまー)。

お百姓仕事ではその3分の一くらいかな?


なので、それだけ続けても興味が失せない対象ができたらあとは日々邁進すれば「だれでもいつかは」の世界です。

最近「◯◯をはじめたいけど・・・」などと相談を受けるときに

 

ーまずは一歩を踏み出す。

ー失敗してもいい。

ー他人に頼らない(迷ったら自分の心に聞く)。

ーその課程に楽しみを見つける。

ー力がついてきたら、それを世間に問う機会をもつ。

ーつまらないプライドは捨てる。

ー諦めない。

 

そうこうしているうちに10000時間だよ〜、と思ったりするのです。

 

すぐに答えを求めず(試験問題じゃないんだから答えなんてナイ!)

誰からもいい人でいようとしないことことも大事(だって賛成する人ばかりなわけないですからね)。


ほんとうにしたいことって、たぶん人に何を言われようと始めてしまうものと思います。

もし他人に「失敗」と思われても本人が諦めていなければ「過程」に過ぎず、それこそが次の進み方のヒント。

学びは与えられるものでなく、経験の中から掴んでいくものです。

そうして自分のセンサーを磨いていく。

 

とにかく10000時間、場数をふんで自分のセンサーにある程度、確信がもてるようになると

たぶんシゴトとして成立するようになるんじゃないかな。(と同時に周囲の雑音も消えていく、笑)

 

経験をしたもの勝ち!と思うし、10000時間すらその道の過程。もしかしたら次のスタート地点かも。

好きなこと、気になったことで、それが良心に背かないことであればどんどんやってみたらいいと思います。

たとえ、それが答えでなくても自分の能力を生かせるシゴトへの鉱脈に続いているものです。

百姓の前にパン職人をしていたことが意外に役だっていたり、人生の種まきはどこで発芽して、どこで花開くかわかりません。


 

おまけ(長いよ)。

おくなが屋で焼いているパンやお菓子がオーガニック&無添加で、扱っている食品も自然食品なことからなのか

「そうしなきゃいけない」みたいに外側からmustで考えているように思われますが、ちょっと違う。

みんな事情はちがうし、その中でベストを考えていけばいいと思います。


本当にいい食材をつかって商売すれば利益をだすことがむずかしいというのもわかるし(とくに人口の少ない地域は)、

でも反対に利益を第一に求めて材料費は低く抑える、あんまりいい素材は使わないで砂糖や添加物に頼って

売値は買いやすく設定するという方法は多くのメーカーや店で行われていることだけど、 

でも、そうするんだったら自分が携わることないじゃん!とつよく思ってしまうのが私なだけです。

特に食べ物は命をつなぐもの、という思いがあるので家族にも知り合いにも、もちろんお金を出して買ってくれる

お客さんにも堂々と差し出せるものを作りたいし、そういうことができないなら食のシゴトはしないです。

 

もし世の中がもっと呑気に暮らせる環境だったらわざわざそんなことは考えないけど、

知れば知るほど今の世の中は人を病気にさせる食品をイメージだけいいものにして広めている構造なので、

ま、そこを変換したい、というのが食をシゴトにした意味なので。

つまり内側からきている(どこからきているのかな?)なにかで、今のようにしているだけ。

それでもベストはまだ先にある、今のところのベストであって「過程」です。

 

食の世界が雑貨やインテリアの世界とかぶってきたのはいつ頃からなのか。切り離せないものなのは確かです。

スタイリストとカメラマンがついた料理本、最近は食のシゴトもする人もおしゃれな人があたりまえで、

それはそれでいいことだし、見ていて楽しい。私も好きです。でも同時にイメージに重心がかかっていて、

(その紙面に惹き付けるために仕掛けられたことなのだけど)、そこに写っているものの「質」や「背景』や

「影響」がいつも気にかかってしまう、ひっかかってしまうというのが、どうしようもない自分のサガなのです。

 

例を出しましょう。

ある雑誌に、もうずいぶん前の号ですが、クッキーを焼いてみましょうみたいな記事がありました。

そうしたら、そこに「小麦は国産でなく、作りやすくて、さくさくして美味しい海外産のを使いましょう」とあるのです。

とても良心的な紙面を作っている、しかも広告を取っていない雑誌なのに、無条件に外麦を勧めていることに

軽いショックを覚えて、まるで製粉会社が広告主になっているみたいだ・・・と思ってしまった。

外麦の危険性(ポストハーベストや燻蒸されていること)にまったく配慮なく、

なのに写真付きのページのトーンはとってもあたたかく幸せムードいっぱい・・・。

そんなものを見つけた時には、もう私にとってはしばし葛藤の時間です(つくづくめんどうな性格!)

 

その雑誌の編集長は自分で本もいっぱい書いていて、毎日、勉強する時間をつくっているなんてことも書いていたから、

そのくらいわかっているだろうと勝手に期待してしまっていたんですね。

その時は国産小麦を選んで使えば安全だし十分おいしいのができるのに〜、と思わず手紙を書こうかと思ってしまったくらい。

(今では私も大人になって?他のジャンルでは自分も同じような無責任な間違いをあちこちでしているんだろうと思うし、

そういう記事を見つけても、いちいちそんな反応をしなくてすむ術も身につけましたよ、エヘン!)

 

それでも昔はそんな余計なことを考えないで、もっと楽しめないのかな〜、と自分の気持ちを制してみた時期もあったけど、

でもあるとき、これはもう引き受けるしかない、と悟ったのです。

自分の道を行くということは気がついたら少数派だったのね、ということを受け入れることなのかも知れません。

なんか他の人とは違うところに引っかかる、というのは立派な才能です!(笑)

その道を歩きはじめたら、あっというまに10000時間でした。

(そこで主人とも出会ったし、無理といわれた子どもも自然に授かったのでやはり直感ってなにかの導き?)


というわけで、今は次の10000時間へ。

有機、オーガニックというのは一つのわかりやすい指標ですが、その前に想いとか、志とか、波動とか。

さらに医療の世界、環境や社会構造、最近ではソマチットの存在などもも解明されて、

そんな世界にもつながっていて果てしない(・・・)、長生きしなきゃ。

 

 

おまけのおまけ(さらに余計な・・・)。

そんなふうに自分の思うままで自由に探索している世界なので、簡単にマクロビオティックだ、ナチュラリストだ、

エコロジストだ、なんだ、とひとくくりにされるのがあまり好きではありません(キッパリ!)

どこにも所属していないし、その道の師匠についているわけでもないし、だれかを真似ているわけでもないし。


ま、世の中が歪んでいる分、そっち寄りなのは認めますけど。