1990年からのイギリス滞在中、朝食をとりながら見ていたテレビのニュースで湾岸戦争が始まったのを知った。
どうすれば、いいんだろう?とも思ったけど、いつも通りの日常を送った。
小さな語学学校に日本人はいなくて、戦争中にひとりやってきた子は日本を発つ時、親戚全員に泣かれて、
親が安心のために片道70万円(!)の日航機のチケットを用意してくれてそれに乗ってきた、と話していた。
格安チケットなら往復18万円位だったので、そのお金があれば私なら3回来れちゃうのになぁ、なんて思った。
流れているニュースを見ると大変なことが起きていたけれど、参戦国とはいえ地上戦が起きているわけでない
イギリスではムードの変化があっても、日々の生活にはほとんど変化がなかった。
それより毎朝、家を出るとマイナス10℃以下という寒さの中に放り込まれる方が現実的な問題だったくらいに。
戦争中はロンドンに行ってもなんとなく閑散としていて、数ヶ月先まで予約が取れないといわれたミュージカルの
当日券が簡単に買えたりして、人生初の本格的なミュージカルに私は一人で感動して歩いていた。
3ヶ月経って、日本に帰国するときのガトウィック空港では体の大きな警官が巨大な銃を肩から下げながら、
それでもフレンドリーに人に接していて、日本ではそういう光景を見たことがなかったので妙に思えた。
聞こえてくる戦地の状況はますますひどいのに、私はふつうに飛行機に乗り帰国した。
1992年、今度はアメリカのロサンジェルスのサウスセントラル地区で起こった暴動の日。
同じロスでも、そこからかなり南下した海岸沿いの街で、その日は一日ビーチで本を読んでいた。
暑くなったので家に戻ったら留守番電話に日本から14件もメーッセージが残っていて、
それを聞いてテレビをつけると、中継車からの映像が流れていて人種差別を発端とした暴動が起きているのを知った。
当時はメールなんてものもなく、電話は心配した日本の家族や友だちからだったのだ。
ロスは広いから日本でニュースが流れても、地域が離れていると何もわからない。地震や山火事のときもそうだった。
夕方「念のため避難」といってやって来た友人とふつうに夕ごはんを食べておしゃべりをして過ごした。
数日後、暴動がとりあえず静まった頃、クルマを走らせ現場を見に行ったら、たまに行っていた韓国街の
焼き肉屋さんがもう営業再開などしばらくできないくらいに壊されていてびっくりした。
そこはロサンジェルスの中でも1番か2番目に美味しいと思っていたレストランだったので、
しばらくあのケジャンを味わえないのかと思うと残念だった。
隣のセブンイレブンは商品棚がメチャクチャになって、ガラス窓は全部、割られていた。
それでも借りていたアパートのあるレドンドビーチに戻ってくれば、それまでと変わらない風景と生活。
今回のフランスのテロの(といわれている)爆撃だって、ニュースと実際の人々との間では印象が違うのかもしれない。
離れた場所の衝撃的なニュースを見ると自動的にそう思ってしまうのは、そんな経験をしているせいと思う。
遠い場所の悲劇と同時進行している今ここの暮らしがまるでパラレルワールドのようで、いつも不思議な気持ちになる。
その上、911頃からニュースに流れている内容は、歴史と一緒で時の権力者や支配者に都合のいいように、
コントロールされていることがバレバレの世の中で、そのまま信じられなくなっているし、
今回のパリの真実ももう少し時間が経たないとほんとうのことはわからないのではないかと疑ってしまう。
自分の意志とは無関係に犠牲になった人はほんとうに気の毒。
二度と起こらないようにするには何が必要なんだろう。
友だちが向こうで4人の子育て真っ最中なので、気になってメールをしたら「大丈夫!」とのことで安心した。
パリでは学校も習い事もすべてキャンセルで、みんな自宅に閉じこもっているらしい。
でも友人からは「怖がらずに平常通りの生活をして強くなった方がいいのに」と返信がきてさすがに逞しくて笑った。
「強くなった方がいいのに」というのが、なんていうかポイント。
情報はよく知っている人の伝えてくれる内容がとりあえず一番リアル。
あのお店や公園はどうなっているだろう?とか想像して、あらためて平和な日々のありがたさや奇跡をおもう。
(それにしても、むかしのことを思い出すとなんにもわかっていない自分ののんきな若者ぶりが懐かしい。
半径50mくらいのことしか見えていないのに、それはそれでいろいろなことがいっぱいあった時代でした。)