いじめと授業法

先日、こちらでも案内した堀さんの「いじめを考える」講演会。

 

そこで今まで抜けていた事実をあらたに知った!

それが「ヘルバルト教授法」というもので教育学を学んだつもりが聞いたことがなかった

(聞いていなかっただけ?)

 

今、一般の学校で行われている教育(授業)はこのヘルバルト教授法が基本になっているのだそうです。

 

今から124年前の明治27年(1894年)。

日本が日清戦争の勝利に沸いている頃です。「実用 教育学 及 教授法」というものが発行されました。

それにはヘルバルト派の人たちによって、その5段階教授法というのがまとめられていて、

どういうものかというと、

第一段階 準備 「教授をはじむる前に、新たに教授せむとする目的を予告する」
第二段階 提示 「新事物を提示する」
第三段階 比較 「類同もしくは反対の事物顕象を提示し相比較判断せしむ」
第四段階 統合 「個々の念より総合したる概念的結果を純正明瞭にする」
第五段階 応用 「新例を与えてこれを説明せしむ。試問も含む」 

言語表現は少し古めかしいけど、なんとなく馴染みがあるというか、私たちが学校の中で

味わってきた授業法のルーツを感じることができる手法になっています。

だけど、現代になり、学校でアンケートをとると学校へ行く理由に「授業がたのしい」と

答える子どもはたった1〜2%だけになっている(授業が学校の要のはずにもかかわらず)。

 

そういう状態になるまでには、ほかにもいろいろな原因が含まれているかもしれないけど、

それはとりあえず置いておくとして、

 

この教授法、学ぶ内容に疑いがない性質のもの(例えば自動車教習場とか)であれば合理的と思う。

でも、人が「生きていく力」を身につける時にはあまり相応しくない気がする。

けど官僚主義、資本主義社会の「人材づくり」には向いていたのかも知れない。

 

 

とにかく今の多くの子どもたちは、楽しいとは感じない時間を毎日6時間程も味わっていることになる。

心躍らない時間を毎日やり過ごすーこの苦痛の積み重ねが生み出すものに問題を感じた堀さんたちは

学校を作ろうとした。子どもたちが勉強をたのしいと思って通える学校をー。

 

そこで取り入れられた方法はアメリカのジョン・デューイ(D)という(教育)哲学者の唱える

「1オンスの経験は1トンのセオリーに勝る」という経験から学ぶことの大切さを主張した哲学と、

 

イギリスで「世界一自由な学校」といわれる学校を作ったニール(N)の主張する

「まず、子どもを幸せにしよう。すべてはそのあとにつづく」といういっけん大胆な、

(でも本を読むと実に腑に落ちる考え方、思想にあふれている)哲学と、

 

もう一人のやはり自由教育を実践したエッケンヘル(A)、そのちょうど頭文字をとった

DNAが自分たちの学校には流れている、と堀さんは書いている(おもしろい、笑)。

 

この学校の小学校校長である丸ちゃん(「先生」とは言わない)が、

ある年の一年の始まりの会で話した内容も

 

「この学校の子はいろんな子がいるけれど、みんな優しいの。で、なんで優しい子のかな、って考えると

毎日、たのしく過ごしているからなんですね。今年もたのしい時間をいっぱい過ごそうね。」

という、1年生でも6年生でも保護者にもわかるシンプルな言葉で、神髄をついた内容だった。

 

そして、講演会で堀さんが提案した「いじめによる自死をなくすために大人ができること」は

 

◎学ぶことがたのしくなる学校(授業)にする

◎いじめを個人同士の問題にとどめず、みんなの問題にしていく

 

ということだ。

 

今、世の中を見渡すと生きにくさを感じている人がどんどん増えているように見える。

個人情報の陰に隠れて、匿名のままネット上で他人を簡単に批判したりするのもそうだし、

最近では有名人の不倫に対してのパッシングとか。

それは他者を非難しているように見えて、実は自分の首をどんどん締めている。

 

不倫についていえば、結婚制度なんて実は歴史が浅いし、そもそも他人が批判したり善悪を

論じたりしなくたって、私たちは自分がまいたタネは自分で刈り取るようにできているんだから、

ほっといてあげればいいのに、と思う。そこで学ぶのも、堕落するのも、成長の過程だ。

 

話は逸れたけど、要は日々楽しく生ききれていず、抑圧された自我を抱えていると、

そのバランスをとろうとするあまり、子どもは問題行動を起こす。

 

理性が発達した大人は少し複雑になり、立場を利用して人に(巧妙な)意地悪を働いたりする。

そういう人は(無意識レベルで)楽しそうに生きている人を見ると腹が立つ。

自分が味わっていないものを味わっている人の存在が許せない。

 

そういう社会がいじめが繰り返される土壌なのではないか。

 

「楽しく生きよう」というと、なんか、無責任、刹那的、一時しのぎ、努力や苦労を避けている等、

なんだかネガティブなイメージが押し寄せるかもしれない。でもそれこそが罠なのだ。

 

だって肉体を持ってこの世で生きる限り、悩み、苦しみ、悲しみはだまっていたって発生する。

なら余計に方向として楽しいことを求めていないと、乗り越える心の体力が養われないではないか。

 

だから思う。

「楽しく生きる」という選択は決して「逃げ」ではなく、工夫してときには闘って得ていくものだと。

 

 

さて先日。

堀さんが学園長を務める学校で、プロジェクト(授業)中に怪我をしてしまった子どもがいたため、

学校は保護者に連絡した。だけどお母さんが学校に迎えにきた時にその子は泣き出してしまった。

それは怪我が痛かったのではなくて、学校から帰るのがイヤで泣いていたのだという。

 

なんだか今の世の中で希有なエピソード・・・。

こんなに学校を楽しいと感じている子どもが増えたなら、

きっと陰湿ないじめは起こりにくいだろうなぁ、と思いました。