毒と自己表現

自己表現というのはインスタにどれだけ写真をアップできるかとか、Facebookでどれだけ

「いいね」される生活を送っているかとはちょっとズレたところにあると思う。

 

例えば、あとこちで飲食店を営んでいる友人知人からよく耳にする話として、オーダーした

ものを写真を撮るだけで残す人がけっこうな割合でいるらしい。そういう人たちはその写真

をSNSにアップしたあと、どれだけ反応が返ってくるか認証してくれるかを確認するんだろ

うけれど、それは自己表現でもなんでもなくて、むしろ注文したのに写真を撮るだけで食べ

ないということの方がはるかにその人を表している。SNSというバイアスがかかり過ぎて、

しかもそれが過渡期なので実際の行動がおかしくなっている人が増えているといのかも。

 

生みだしたり作りだす側とそれを消費する側。

どちらを選ぼうと自由だし、どんな人にも両方を立場を行き来している面もあるから、あと

はバランスとマナーとセンスの問題なんだと思う。

 

それでも最近のある営業日。

その日は遠方からのお客さんが多くて、そのほとんどが東京か海外からというめずらしい日だ

った。そしてみんなカメラになるものを持っているのに、勝手に店内を撮ったりする人は一人

もいなくて、みんな外から撮るだけだった。以前だったら店内に入るなりパシャパシャしたり

私たちのことも断りなく(!)撮ったりした人が現れたけれど、こういう習慣も成熟してきて

いるんだなぁと時代の変化を目撃した気分?だった。半径10メートルくらいで生きているの

で見当違い的なズレ(店内には撮りたいものがなかっただけ、とか)もあるかもしれないけど。

  

同じ写真でも、例えばその料理を自分が作ったものなのか、誰かが作ったものを撮影してあげ

ているのか(あげちゃいけないわけじゃない)、で意味合いがまったく違うように、

 

生産者側はと試行(思考)錯誤という経験を積んでいて、その経験は必ず蓄積になって、その

後に生かされるという仕組みはもう宇宙の法則みたいなもので、そういう意味では勝手にSNS

にあげられようが匿名でコメントを書き込まれようが、何かが鍛えられているという点で必ず

進化している。それは「もらい感動」ばかりで与えられる側、消費者マインド中心に生きてい

たらゼッタイ見ることができない景色と吸うことのない空気を味わっているということだ。

 

でも生身のニンゲンとしては、ボディブローのようにじわじわ傷ついたり気に病んだりするこ

ともあるから、外からの規制がほとんどない世界だけに自分でどれだけ想像力を働かせて利用

するしかないんだろう。

 

傷つくことを恐れて、当たり障りのない、万人受け間違いなしみたいなことばかり続けると自

分が本当は何を感じて何を考えている人なのか、自分でわからなくなりそうだし。

 

・・・と、未だにSNSのいい使い方がよくわからない50代です 笑。

使いながらも結構、懐疑的で、どこに着地するんだか。

 

でもインスタで遠く離れた友だちのきれいな写真を見れるのはとても楽しい。

 

 

毒を持つことを恐れちゃいけない(毒を持て!by 岡本太郎)

毒は加減が問題で微量であればスパイスだったり薬になったりする大切な要素だから。

 

何かを生み出したり、表現する時にそれがどこかないと、なかなか人の心に引っかからない気

がする。「!」と感じる表現には必ず毒がどこかにギリギリ含まれていて、その人らしく上手

に料理されているものが多いと思う。