住む世界

世の中がラグビー戦や台風や天皇陛下即位の祝賀ムードでわいている時でも

それとはまったく関係のない(ということは厳密にいえばないけれど)

ことに集中していると体がどこにあっても意識の住む世界は

どこにでも行けるんだなぁ、と不思議な気分になる。

 

今この一瞬には基本一つのことしかできないから

その選択の連続が住んでいる世界を分けている、というか。

 

先月も京都のレジデンスタイプのホテルの中で家族がテレビのスコットランド戦に

釘付けになっているヨコで、私は四大元素とホメオパシーの関係に没頭していた。

そのシチュエーションがまさにそれを象徴していて、ラグビーの試合にハラハラ

ドキドキに心が奪われている人たちと、四大元素に「うむー」となっている

自分とでは心臓の脈拍も頭に浮かんでいるイメージもまったく違っていて

同じ場所にいてもそれぞれの意識(心の方向)は

それぞれの自由というのがおもしろかった。

 

 

こんな平和な状況とはまったく異なり過ぎて申し訳ないくらいだけど

ユダヤ人が迫害されたナチスの強制収容所の中で生まれた「夜と霧」や

映画「ライフ・イズ・ビューティフル」に描かれる世界とも

厳しさのレベルを抜きにすれば、通じる話でもある気がする。

 

 

30年も前の話、初めて一人でイギリスに滞在していたときに

もう毎日天気が悪いしホームステイ先の食事も飽きたし何もおもしろいことがない街に

来ちゃったし英語はめんどうだし早く母国に帰りたいと憂鬱そうにしていた女の子に

出会った時、同じシチュエーションの中で毎日楽しくて開放感に浸っていた

自分と真逆の感じ方を抱えていることにびっくりして、人の受けとめ方って

本当に人それぞれなんだと思ったことがある。

 

たのしい国の住人になるか、苦しい国、ストレスフルな国、危険な国の住人になるか。

選択の自由がある時はいいけれど、何かの圧力や権力でそれが出来なくされた中でも

選択をした国の住人になろうとしたのが「夜と霧」や「ライフ・イズ・ビューティフル」

だと思う。

 

311で何かに押されるように九州へ来た時。

先が何も見えなくて何も決まっていなくて、久しぶりに学生の時以来「夜と霧」を読んで

その時の自分たちよりずっとヘビーな状況が描かれた本によって心が蘇ったことがある。

「考え方一つ」「捉え方で何でも変わる」と生きていることへの意識を取り戻した感じで

今、思えばまさにホメオパシー的な読書だった。

同種のものを(希釈震盪して)与えると生命力が蘇るという法則そのまま、

ミヒャエル・エンデもエッセイで書いている芸術の効果と同じことを味わった。

 

私たちは自分が思っているよりじつはずっとずっと自由な世界で生きている。

どんな現実の中でも意識はいつも自由に何処へでも行ける。

サバイバル時代に、これは結構使いでのある大事な能力だと思う。