あれから9年

311のことは度々ブログで触れてきたけれど、最近

やっとあの日とその後の日々のことをもう少し細かく

書いておこうかなと思えるようになりました。

 

不思議なのは、9年後の同じ時期に、見えないけど

健康を脅かすものに再び私たちが晒されているということ。

農薬とか添加物、電磁波、PM2.5など浴びて生活して

いるので今さらなんですが。

 

例えると終戦を迎えた時のような世の中の価値観の大転換

を味わったような9年前。消費者として資本主義を浴びて

育ってきた者にとって根底を揺さぶられたというか、

果てを見てしまった気がしました。

 

パン屋を一緒に手伝ってくれていて「姉妹?」お客さんにも

もよく訊かれた仲間を助けてもあげられず、それは今でも

染みのように残る残念な思い出。今でも人を雇うことを

しないのはその時のことがまだ自分の中で解消できて

いないというのもあると思う。もう、あんな不本意な

突然の別れ方をしたくない。

 

娘だって、すごく楽しみにしていた保育園の卒園式に

出させてあげれなくて、それも苦渋の決断でした。

 

それでも自分たちを被害者ではなく、無自覚の加担者だった

と思えたから復活できたのだと思う。加害者であれば他人に

期待するのではなく、自分たちが変わればいいんだから。

 

その辺はあまり単純な話ではないけれど、なんというか

加担している部分を見直す、というともっと近いかも?

そしてその捉え方はすべてに渡って正しかったと今は思って

います。そこを自覚してからはデモや裁判にかける時間が

あったら、その分、自分たちの生き方で表そうと思いました。

だからといってデモや裁判をダメと思っているわけではなく

役割分担として、私たちはこっちの表現方法をとっただけ。

 

ただ、当時の私たちはまだ若く、命は無事で実家の田畑も

残っていたという避難者です。

 

もっと大変な状況で被災した方たちはその後の9年をどんな

ふうに過ごしてきただろうと思うとなんともいえない気持ち

になります。

 

災害のショックはそれが過ぎてもボディブローのように心身に

響いてきます。その後にどんなに楽しい出来事が上塗りされて

も消しきれないものが奥の方に残ることも体験して初めて

知りました。

 

あとはそれをただのネガティブな記憶として放置するのでなく

その体験をいろんなカタチで生かすということでしか意味が

生まれない気がして、体験者としてはそこに勝たねばと日々

生きているのです。

 

311の起こる7ヶ月前の写真。

当日はこの建物が3回くらい大きく揺れて

(倒壊する〜、と思ったけど無事だった!)

前のアスファルトの道路も波のようにうねり電信柱まで

大きく揺れ、通行中の車は全部、路肩に止まった。

 

金曜日は地方発送の日で集荷の15時に間に合うように

ダンボールに注文のパンを詰めている作業中、震度6強

の揺れが来るたび、建物から外に出る。でも立っている

こともできず、しゃがみながら揺れが収まるのを待ち、

終わったかな、と思うとまた中に入って作業の続き。

 

震源地はどこだろう?と思っていました。

 

揺れがおさまって、お店を閉め苺パイ用の苺を仕入れに

自然栽培をしている農家さんのところへ寄って保育園へ

子どもを迎えに行き、帰りの車の中は苺が入ったパレット

数枚積んであって車内は春の甘い香りでいっぱい。

 

その夜からいろいろな情報が入り出す。

 

結局、放射能が漏れているらしいという情報があったため

パン屋の酵母つなぎを中断して、とりあえず距離を取ろう

と翌日、那須から両親が移住した山梨まで行くことに。

 

それが地震の翌日12日の午後3時。

出発を決めて身の回りのものだけをまとめて2時間後に出発。

それがそのまま帰れなくなるなど夢にも思わず。 

 

車の中では息子に授乳しながら、苺を食べていた。

苺パイにならなかったね、とか言いながら。

 

高速道路は緊急自動車しか使えなくなっていたのでひたすら

下道を走る。途中で給油。その頃はまだ普通に給油できたのに

1時間後にはガソリンスタンドへ行っても買えずもう動けない

と友人の電話で知る。それでもパチンコ屋さんの駐車場には

いつもと変わらない数の車がたくさん停まっていて、

なんだかその風景がものすごくシュールだった。

ここはあの揺れがなかったのかな?というくらい。

 

友だちや知り合いや親戚からも次々と電話がかかってくる。

 

夜、ライトのあたる日光東照宮などを通過。

ここはどうなるんだろう?と思いながら

やっぱりこれが現実なのか不思議な感覚。

 

娘は小学校入学のために悩んで決めた色のランドセルを

後ろの席で大事そうに抱きかかえている。

 

山梨に着いたのは夜中の1時半。

朝になると父親は確定申告の書類を揃えていて、その実際の

生活ぶりに、まだふつうの生活してる!とびっくり。

 

やっぱり、あの「揺れ」を味わって私たちは何かが開いて

いってしまったんだ...と悟る。ある力量で繰り返し揺らすと

いう作業は質を変容させるテクニックということは古くから

錬金術師の間でも知られているらしい。

 

もちろん、なんでも揺らせばいいわけじゃない。

現物質に何かが含まれていないと、たぶんダメ。

私たちに含まれていた成分は一体なんだったのだろう?

とにかく、それからの日々で大きな変容が広がって

いったのはまちがいないのだ。