おしゃれ病か、美意識か、

社会にはいろんな病気があるけど、近年この国で

流行っているのは「みんな、おしゃれ病」だという

アーサービナードの指摘におもわず唸った。

世の中を見抜くことにかけてアーサーの右に出る

者はなかなかいない。鋭い!

 

確かに右でも左でも「おしゃれ病」が蔓延している。

オーガニックも食事法も健康法も環境問題もぜんぶ

おしゃれなこととして消化されている。

 

SNSや雑誌で提案された髪型、お化粧、服装、ブランド

に感染して「おしゃれ病」になる私たち現代人。

 おしゃれするのは悪くないけど、でも、そこに本質が

欠けているとじつは全然おしゃれじゃない。

 

「おしゃれ風」。

本物のみりんでない「みりん風調味料」と一緒だ。

 

しかし考えてみる。 

例えば、お店や家を作る時におしゃれにとは考えなかった

けど予算内で気がいい空間を作りたいとは思った。

身なり、服装も同じ。

それは自分なりの最低限の美意識ともいえる。

 

では、おしゃれ病と美意識を分けるものは何なんだろう?

おしゃれという言葉は「洒落(しゃれ)」と同じく

「晒れ(され)」または「戯れ(され)」が転じて

生まれた言葉らしい。

 

戯れるとは、ネコが戯れるなどとも使われるが「趣がある、

機転が利く、気が利く、風流である」という意味がある。

それが転じて 垢抜けしていること。そこから、おしゃれ

をする意味の動詞「しゃれる」が生まれて「おしゃれ」。

 

そして今では意味がちょっと少し狭くなり、服装や化粧など

身なりを洗練したものにしようと気を配ること。

うつくしい(と思う)装うこと。また、そのような人のこと

を「おしゃれな人」と形容する社会ができあがっている。

 

しかし、本来のおしゃれは機転や気が利いていること、

そこに趣き(味)があること、風流さ、など遊びや

余裕を感じる態度が伴った有様を差す。

 

受けがいい「見た目」にすることではなく、もっと精神的

なこと。その微妙な違いを見分けるセンス。

そう「おしゃれ病」にはこのセンサーが鈍っている状態。

 

こうやって紐解いていくと、おしゃれの本質は、今よりも

もっと行動や生き方の在り方に対する表現だったのではないか。

 

おしゃれ病か、美意識か?

似て非なるものを嗅ぎ分けるセンサーを磨いていきたい。