3.11

そのものズバリのタイトルですが、ちゃんとしたことがまだ書けません。

3年前のあの日、すごい揺れを経験して、見えない放射能に対して突然の判断を求められて

それは今も問い続けながら暮らしている部分があって進行形です。

はっきりしているのは、大きなものを失って、でもまた作って

入れ替わったものがたくさんあったということ。

 

政府や東電などは、3年経って子どもに甲状腺の異常や癌が増えていたって

責任をとる気はなくて、なかったことにしようと逃げてばっかりだし、

過去の水俣病などの時からまったく変わっていない。

だから、やっぱり自分で調べて考えて行動していくしかないのだと思う。

正解はそれぞれ違ってあたりまえ。

デモや投票で表すのも大事だし、実際的のふだんの生活で表現していくのも大事。

観念的になることなく、足を地に着けて行動していきたい。

 

お休みにたまたま近所のホームセンターに行った。

花を植えるための土を探していたら店員のおじさんに

「どんな土がいいの?」と聞かれて

「化学肥料が入っていないもの」と答えたら

「食べるもの育てるの?」

「そのための堆肥はつくってるから、花のための」

「え、木や花にも全然、使ってないの?」

「土にそういうものを撒きたくないので〜」

「そうなの、それはすごいね!食べ物は基本だから大事なことだよ、

で、いつからそうやって食べるもの育ててるの?」

「3.11で移住してから始めました」

「移住・・・?」

そして前に住んでいた場所のことなど聞かれたりして会話が続き、そして最後にそのおじさんは言った。

「・・・それなのに、まだ原発を動かそうとしている。歴史から学べないヤツはダメだな、なあ!」

 

その時、おじさんの健全さになんだか少し救われたような気分になりました。

 

今までの社会は、どこか大きなところに所属して肩書きを与えられた男の人が中心になって作られてきて

「ふつうの感覚」より利益や世間の評価や安定を物差しにコトが進められてきたと思うけど、

まだまだ正常な感覚をもっている人がいるんだなぁ、と思ってしまいました。

 

フツーに考えたらそうでしょ、みたいな感覚って本質をついていたりして大事なのに

その感覚を押し殺して、保身や利権に依存してもっともらしい理由をつけて生きていると

顔がどんどん汚れてくるか、逆にきれいな仮面をつけて生きるようになる。

そして、その理由にいつのまにか自らが支配されている。

 

頭がいい、成績がいい、と学校の中で言われ続けてきた人が陥りやすい罠ですね。

ホントに頭がいいってどういうこと?

勉強ができるって価値があること?

そういうところで優秀だった人たちがリーダーになってこの国のことを決めているのなら

なんで、こんなことになっているんだ?

 

だから3.11以降、仕事の選び方って大事だな、と余計に思うようになりました。

人としての感覚が狂わない、精神の自由さと健全さを保てるシゴトで暮らしていきたいなぁ。

 

 

ポルトガル語で “マオ・レゾルビーダ” という言葉があって、ある地位を得て、

ひとかどの人間のように思われているけれども、実際の個人的な生活とか

人間的成長が伴っていない人のこと。自分では解決したつもりでも本質的には

何も解決していない人のことを指します。

 

つまり、社会的な顔は立派に見えても、個人としてつきあってみると幼いというか、

相手によって態度を変えたりする人、そういう人は地位はあっても、

どんなに仕事をしていても、ブラジルなんかでは

“マオ・レゾルビーダ” はひとりの人として決して尊敬はされないそうです。

  

自然への畏敬を忘れた人間になるのを避けるため「教育を受けるのは8年まで」

というアーミッシュの人たちはエネルギーも食べ物も、住む家も着る服も、

移動手段も馬車を使ってすべて自給して暮らしている。

決して、土壌に毒を撒いたり、空気を汚したり、ゴミを増やしたり、

人よりえらくなろうとしたり、人よりお金持ちになることに重きをおいていない。

質素な、それでいてその風景は素朴な美しさに溢れている暮らしを営んでいる。

 

それから。

震災はともかく、原発事故については被災者であると同時に、大人はみんな加害者でも

あったことも忘れちゃいけない。そんなことを考えつつ3年目を迎えています。

ブルーな気持ちの中にも、光を生みだせる力をつけたいものです。