2018年

11月

13日

無重力の中年

最近、ブログの更新がないねー、と友だちからもメールがきたりしているのですが

なんたって、ほかにすることが多すぎて手が回らない日々です!

 

こんな自由にものが書ける場がありながらもったいない話。

プロだったら、いろいろな制約があったり、売れなくちゃ次がないし、と厳しい現実があり

そうでなければ、見てもらうために、あれこれ工夫をしたり、これまた大変だけど、

そのどちらでもなく、それでも毎日一定の数の人がチェックしてくれているのだから

少しは応えなくちゃ、と勝手に思っているのですが、なんたって休みがないのです!

 

それでも近況ついでに最近、感じていること(結局、書いてしまう)。

それは「歳をとることも案外、いいものだ」ということで、

なにがいいかって、若いときにはあった「欲」をどんどん手放せるようになるので

その分、自由になるんだ、ということに気づいたのです。

どんどん身軽になって、この先に最後は身一つで次に行ける道筋があるんだろうな

という光が見えてきたというか。

 

今の若い人は、私たちの時代とはちがう設定の上に生まれてきているので、

バブル時代のように浮かれていないし、あまり大きな欲望も持たず、修行系の努力もせず

初めから冷静に考えて事に当たるか、直感的に始めてしまうか、

だって、物心ついた時からパソコンがあり、スマホがあるんだものね。

 

でも、80年代に人生の一番エネルギーが溢れている時期を迎えた者としては

もっと元気だけど失敗も多くて、でも自分の足で情報を探して、旅行もいっぱいして

なんというか、もっと動きが大きかったような感じで、その分、希望や欲望も

いろいろだった気がするのです。

 

私など若い頃、あまり自分に制限もしていなかったので、人からなんと言われようと

やってみたいことは順番にやっていました。行きたいと思えば行き、試したいと

思えば試し、それでいつかは自分が生まれた街(当時は今ほどでなかった吉祥寺)に

ビルでも建てて、そこに住みながらビジネスでもするか!なんて妄想(迷走?)

していたこともありました(笑)他にも、さまざまな野望(?)を抱いたものです。

 

今、考えると、それも時代の空気から洗脳されていたところがあるのかもしれませんね。

だって、なんのために?だいたい、そんな生活、向いてそうで、実は向いていないもの!

というか、手法がちがうよ!と若い頃の自分に教えてあげたい、笑。

 

なんか大きなことをやってみたい、というのは若い頃、自分を探すために、

どこまでエクスパンドできるのか試めしてみたかったのかな。

それはそれでおもしろかったですし、それがあって今があるのは間違いないのでいいのです。

 

でも中年になってみると「それ、いらない」と思える事柄をどんどん捨てられるので

それはそれですばらしい!と思える。ギラギラ.ガツガツしなくても充分に楽しいし

おいしいし幸せだもの!という青い鳥がちゃんと見えてくる。

 

だからといって希望を失ったのでも、人生を諦めたのともちがう。

自分に必要なものと不必要なものが、もうほとんどわかってしまうちょうどいい心境というか。

 

こうでなければ、という頭が考えたり、世間の基準だったり、する幸せのイメージに

引っぱられない自分ができてしまっているから、そこはもう完全、無重力状態(笑)。

 

周囲のノイズや圧のなかで、この無重力状態を作り出せるというところが

歳を重ねる醍醐味なのかもしれません。

 

いや、もちろん小さな字が見えづらいとか、白髪が増えるとか、そういう変化もあるんですが、

それでも、その年齢なりのギフトって案外、用意されているんだな、と。

 

それを味わうためには、やっぱり健康が大事で、そこを死角にしたくないなとあらためて思います。

 

「健康」というのは思考が支離滅裂にならない土台です。

心身が辛い時って、感情も判断力も、その上ではじき出されるから、どうしてもあとで思うと、

なんか本来の自分じゃない。それが続くともうずっとボタンの掛け違いみたいな時間が続く。

(そうならない人は本当にスゴイ精神力だけど、でもやっぱりその無理があとあと響くような気がする)

 

それに、どーんなに何かに優れている人でも、その命の乗り物である心身の世話が他人任せというのは

エネルギーの供給を例えば電力会社にお任せで、値上げされても爆発して被爆させられても

文句もいえない、何もできない、という状態と似ていて、なんだか心許ない。

病名をつけられた途端に、選択肢を手放してしまうとか、ね。

 

いざとなった時に、薪に火をつけられたり、野草を料理できたり、小屋を作れたり、

そういうプリミティブな技術やアイデアがいつでも引き出せるトレーニングのように

自分自身の心身のケア、こうなった時はこういうふうにすれば元気になるとか、

体調の波にいちいち動揺することがないようにしておくこと、大事と思います。

 

できれば中毒性のないもので元気を取り戻せる(本来の自分に戻れる)というのが理想です。

砂糖、お酒、小麦、クスリなどは中毒性あり、ですが、それでもその質と量を自分仕様に

カスタマイズして摂れる、という知恵も長く生きて得られる知恵のかけら。

 

それには、あんまり我慢とかしない方がいいですよ。

気を遣ってもそこに愛がない人、いっぱいいるじゃないですか。

そんな気を遣うことよりも、自分の心に正直に行動することに心を費やした方がいいです。

たとえ、傍からなんといわれようともー。

 

 

 

 

 

 

 

2018年

11月

11日

第1回オクコトバ、終了♪

ご参加いただいた方、ありがとうございました。

第一回オクコトバ、計15名(+1歳を迎えた子)の16名が参加してくださいました。

3時間以上、あれこれとお話を聞いたりしたり、とても有意義でしたね。

 

のぼった話題は電磁波、ピロリ菌、腎結石、胆石、パン(小麦)について、農業を生業にするには?

体の声を聞くということ、情報を鵜呑みにしないこと、まずは自分を大切にすること、などなど。

ここまででも時間がいっぱいで3時間をかるーく超過していました。

 

話し合いといっても、どっちが正しいかを決めることでもなければ、誰かの意見を批判したり

否定するのでもなく、かといってすり合わせるわけでもなく、あくまで提供されるものは

誰かの体を通って出てきた一つの情報や意見である「材料」です。

 

それをそれぞれが持ち帰り自分の「裡(うち)」に蒔いてみるための、シェアと考えるための場です。

 

一見、自分には関係ない話題でも話しているうちに、何かと繋がったり、それが別なことの

例えとして参考にもなったり、他人と話すことによる意外な作用もおもしろかったと思います。

 

 

学校やマスコミから届けられる受け身で得る情報とは違う、自分から取りに行く情報の交換は

これからの世の中を生き抜くためにすっごく必要と思うので、できるだけ続けていこうと思っています。

 

すでに次の日程の問い合わせをいただいていますので、少し早めですがお伝えしておきます。

次回は12月10日(月)の13:00から、を予定しています。

 

11月28日から参加予約を受けつけます。

 

 

 

 

 

 

 

2018年

11月

04日

イベントあれこれ

11月はイベントの多い月ですね。

おくなが屋おすすめのイベントをいくつか。

 

11月4日(日)なずなジャパン収穫祭 会員無料、会員でなくても数百円で参加できます。

なずなのお米や野菜料理がズラ〜〜と並び、お腹いっぱい味わえます。

詳細は0974−32−7111まで。10時より受付です。

 

11月5日(月)オクコトバ

 

11月13日(土)映画「沖縄スパイ戦史」上映会 豊前市総合福祉センター

110:00〜 14:00〜 19:00〜 3回上映会します。

 

上記の日時に都合のつかない方のために、

11月7日(水)も18:30〜 特別に上映してもらいます。

 

重い内容ですが、知ることは大事、と思います。

今、おいしいものが食べられること、好きな服が着られること、ゆっくり温泉に疲れるのも

いい音楽を聴けるのも、景色のきれいなところに旅行に行けるのも、すべて平和があってこそです。

 

料金は大人1000円、小中高生500円です。

予約は不要です。

 

 

 

 

 

2018年

9月

20日

自由のはじまり

今の自分がなにかの制約の中で生きていて、ああもっと自由に生きたいなぁ!と思っているとしたら。

たぶん誰でも大なり小なり、そんなふうに思っているのではないでしょうか。

だって、あの誰よりも自由に見えるウチの息子、9歳。

学校に行くのは理科と体育だけ。「ほかは行かん」以上。

 

家では猫を傍に、たいがいレゴ、絵を描く、最近はゲーム。そんな生活。

そんな人が「自由に生きたい」と言っていたのだ。

 

「キミがそんなこと言ったら世の中の人なんてどれだけ・・・!」と家族中が心でツッコミを入れました。

 

でも本人にしてみれば、そこがテーマであり守りたいところなんでしょう。

彼なりになにかしら不自由さも感じていて。

 

もちろん本当の、責任もあっての自由とか、その辺の認識が構築されるのは

まだこれからにしても「自由」というのは私たち全員の永遠な大きな望みなのかもと思いました。

 

肉体や物質がある限り、完全に自由にはなれなくて

でも肉体や物質を手放していないということは、どこかでその制約を楽しんだり

味わったりしたい自分が残っているからでもあり

だけどその中でも自由を希求しているという矛盾した存在な気がします。

 

 

わたしの自由な世界はもっぱら空想や想像や思考

そして読む本、見るサイト、聴く音楽、観る映画などを選ぶというところに尽きます(A)

他は必ずなにかしらの制約の上に成り立っていてその制約が変わったらその選択もきっと変わると思うから (B)

 

でも、重要なのは(B)が実は(A)によって支えられている、ということです。

(A)がどれだけ豊かなものを含むかで(B)の幅が決められてしまうということを何度も経験してきました。

 

一見、無駄なことをボ〜っと想っているだけにみえて、その時間に広がった想像の力はなんというか

後々の判断力や新しいアイデアに結びつくように思うのです。

 

それがないと、どこかの誰かが作った(もしかして黒い意図をもって?)イメージに支配されてしまい

気がついたら、ぜんぜん自由じゃない世界で、自分もいつのまにか同じように人の自由を奪いながら

生きているなんてことになりかねないーそのくらいに気をつけていることでもあります。

 

 

こうでなけれないけない、とか、

これってこういうことですよね、とか

 

その辺が強すぎたり、そのわりに人に確認したがる、というのは(A)の時間が足りていないのかもしれません。

それより、

 

こうでもいいよね、とか

これって、こういうふうにも考えられるよね、とか。

 

同じ局面に遭遇しても、そっちの方がずっとたのしいし、それが自由のはじまりだと思っています。